7月 29
サルバトール・ダリ
icon1 art | icon2 芸術家, 画家 | icon4 07 29th, 2010| icon3Comments Off

サルバトール・ダリといえば奇人としての印象が強い芸術家でありますが、数多くの名画を残しています。
トレードマークのねじったようにあがっているヒゲといえば、どの芸術家か思い出す人も多いとおもいます。
シュールレアリズムの絵画で有名で、自分を天才と呼んだのも有名ですね。

ダリはスペインのカタルーニャ地方で生まれました。
裕福な家庭で育ち、子どもの頃から絵に関心をもっていました。
そんなダリですからスペインの美術大学に入学し絵の勉強を始めました。

ダリの作品で最も有名な作品といえば「記憶の確執」ではないでしょうか。
またの名前を柔らかい時計ともいわれ、この名前の通り時計が柔らかい質感で書かれていて形も変わっています。
独創的な絵であり、ダリの想像力のすごさがうかがえます。
ダリの作品は絵画だけにとどまらず、彫刻やオブジェなどといったように様々な作品をのこしています。

ダリの絵は専門的な知識をもっていなくても、想像力を刺激する作品でもあります。
きっとみることで楽しむことが出来るものだと思います。

日本では2006年から2007年にかけて、ダリ回顧展が開かれて、日本では初めて公開された作品も多くありましたので、きっと訪れた方も多いと思います。

チラシ印刷が激安な所を探していたとき、このダリの回顧展のことを知り、とても行ってみたかったのですが、都合が合わず結局いけないままでした。
コールセンターに勤めている友人が行って来たといっていて、とてもうらやましかったものです。
またこういった機会があることを祈っています。

3月 18
横山大観
icon1 art | icon2 芸術家, 画家 | icon4 03 18th, 2009| icon3Comments Off

近代日本画壇の巨匠として燦然と輝く、横山大観(よこやま たいかん)さんは、明治から昭和30年代までに活躍した芸術家です。今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立したことでも有名です。彼の生涯を年表に沿って詳しく見ていきましょう。

明治元年(1868年)生まれ、東京英語学校在学中に絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学んだのが絵画との出会いだったそうです。明治21年(1888年)、母方の縁戚である横山家の養子となりました。翌明治22年(1889年)、東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らに学びました。同期生には菱田春草、下村観山など。

美術学校卒業後、京都に移り仏画の研究を始め、明治29年(1896年)、日本美術院創設に参加する。日本美術院の活動の中で、大観は菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表していきました。

明治36~38年(1903~1905年)にインド、アメリカ、ヨーロッパを歴訪。大正2年(1913年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興し、以降中心的存在として活躍していきました。

日本画壇の重鎮としての地位を築いた横山大観は昭和10年(1935年)帝国美術院会員となり、昭和12年(1937年)にはこの年制定された第一回文化勲章の受章者となった。昭和32年(1957年)、89歳で死去すると、永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、「勲一等旭日大綬章」を贈られました。

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9月 4
山下清
icon1 art | icon2 画家 | icon4 09 4th, 2008| icon3Comments Off

テレビなどで放浪してはその地で絵を描いているといったスタイルになっているが、実際には放浪していた時期は2年程度で、その作品も各地に残してくることはなく、ほぼ学園や自宅で製作しており、遺族が保存している。

したがって、旅先から帰って来てから思い出して作品を作成していることからも、その記憶力の高さが測り知れ、サヴァン症候群の可能性が高い。

山下清の記憶力をもってすれば、受験のためにサピックスに通ったりする必要もないだろう。

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6月 30
日本画の巨匠
icon1 art | icon2 画家 | icon4 06 30th, 2008| icon3Comments Off

名前は聞いたことのある日本画の巨匠「横山大観」
日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、昭和10年(1935年)には帝国美術院会員となり、
昭和12年(1937年)にはこの年制定された第一回文化勲章の受章者となった。
昭和32年(1957年)、89歳で死去。

大観は大変な酒好きで、人生の半分はほとんど飯を口にせず、酒と肴だけで、
済ませていたようです。
好んで飲んでいたのは広島の『醉心』。
酒造の社長と意気投合した大観酒をは無償で送ってもらっていたようです。
かわりに毎年一枚ずつ絵を無償で描きました。
今では考えられないような粋な商売をしていたんですね。

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4月 1

世界で一番有名な日本の画家は北斎だと思います。
北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残しています。
しかもそれぞれが超一流です。
『富嶽三十六景』は構図の美を極めたシリーズで、画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされている。
荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、アイデアの限界に挑んだ作品です。

3月 27

その目で地獄の様なスペインの対仏戦争を目撃し、人間の暗部の生き証人となったゴヤ。
聴覚を失い自己と対話することが多かった彼は、その晩年、誰に注文を受けたわけでもなく、非公開を前提として自分の為だけに14枚の連作『黒い絵』を完成させた。
我が子によって滅ぼされると予言を受けたサトゥルヌスが、産まれてくる子を次々と殺していくギリシャ神話を描いたものです。
底なしの流砂に呑まれていく一匹の犬が、わずかに地表へ頭部を突き出している絵。
どちらもショッキングな作品だが、サトゥルヌスの目には狂気と哀しみが錯綜しているし、犬の方は吠えることも止めて虚空を見つめており真の絶望が胸に迫ってくるような気がする。
単なる残酷な絵ではないことは確かではある。

3月 25

ドラクロワといえば『民衆を率いる自由の女神』が最も有名だが、彼の真骨頂はもっとダークな絵になるだろう。
地獄で亡者に襲われるダンテの絵や、降伏直前の王宮内で繰り広げられた大虐殺の図などは、公開当時はあまりに衝撃的で女性が失神しまくったと伝えられている。

3月 21
ルーベンス~十字架上げ、十字架降下
icon1 art | icon2 画家 | icon4 03 21st, 2008| icon3Comments Off

彼は言わずと知れた、『フランダースの犬』のネロの勇者様だ。
赤い色がうまく出なかった為、ルーベンスが自分の血を混ぜたというこの2枚の巨大な絵は、一枚はキリストを打ち付けた十字架を立てる瞬間を描き、もう一枚はそこから降ろしている途中の劇的瞬間を描いており、その圧倒的迫力は絵の前に立つ者全員を無口にさせた。
ネロがずっと観ることが出来ず苦い涙を飲み続け、ついに最終回でその目で観た後、あの世への片道切符となったこの2枚の絵。
私も幼い頃は涙を流して眺めていた。

3月 15

総作品数、2045点にも及ぶ。
光というつかみ所のないモノを、見事にキャンバスの中に閉じこめることが出来た奇跡の画家としても有名。
モネ以前は“雪は白く、影は黒い”とされていたが、モネが「私は影や雪に様々な色が含まれていることを発見した」と語るように、この印象派の旗手は美術界に色の革命を起こした。
たかが一個の積みわらに、一体何色の色がちりばめられていることか。
対象物を輪郭線で囲むのではなく、線を使わず色の塊として表現する…当時の画壇は本当に目からウロコだったであろう。
睡蓮にしろ大聖堂にしろ、日射しが違うだけであれだけ同じモノを描き続ける執念に脱帽した。

3月 10

“ノートの落書きすら名画”といわれるほど、そのデッサン力の素晴らしさは他に例を見ないだろう。
絵のうまさは他の素晴らしい画家と比べても群を抜いている。

それにしてもつくづくモナリザは不思議な絵だと思う。
写真がなかったあの時代、生きた証となる肖像画では、どこの誰が描かれているのか分かるように、人物は家紋の入った服を着たり特徴的なアクセサリーを身につけるものだが、ダ・ビンチは彼女に指輪、イヤリングなど全て外させ、服なんかアピール度ゼロの黒生地だし、わざと身元不明にさせてるとしか思えない。
彼女の顔は片方が微笑んでいるのに一方は悲しんでいるし、背景に至っては左右の地平線がずれていて景色も全然違うことになっている。

これはどういうことなのかゴッホしか知ることができない。

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