テレビなどで放浪してはその地で絵を描いているといったスタイルになっているが、実際には放浪していた時期は2年程度で、その作品も各地に残してくることはなく、ほぼ学園や自宅で製作しており、遺族が保存している。
したがって、旅先から帰って来てから思い出して作品を作成していることからも、その記憶力の高さが測り知れ、サヴァン症候群の可能性が高い。
山下清の記憶力をもってすれば、受験のためにサピックスに通ったりする必要もないだろう。
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名前は聞いたことのある日本画の巨匠「横山大観」
日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、昭和10年(1935年)には帝国美術院会員となり、
昭和12年(1937年)にはこの年制定された第一回文化勲章の受章者となった。
昭和32年(1957年)、89歳で死去。
大観は大変な酒好きで、人生の半分はほとんど飯を口にせず、酒と肴だけで、
済ませていたようです。
好んで飲んでいたのは広島の『醉心』。
酒造の社長と意気投合した大観酒をは無償で送ってもらっていたようです。
かわりに毎年一枚ずつ絵を無償で描きました。
今では考えられないような粋な商売をしていたんですね。
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世界で一番有名な日本の画家は北斎だと思います。
北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残しています。
しかもそれぞれが超一流です。
『富嶽三十六景』は構図の美を極めたシリーズで、画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされている。
荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、アイデアの限界に挑んだ作品です。
その目で地獄の様なスペインの対仏戦争を目撃し、人間の暗部の生き証人となったゴヤ。
聴覚を失い自己と対話することが多かった彼は、その晩年、誰に注文を受けたわけでもなく、非公開を前提として自分の為だけに14枚の連作『黒い絵』を完成させた。
我が子によって滅ぼされると予言を受けたサトゥルヌスが、産まれてくる子を次々と殺していくギリシャ神話を描いたものです。
底なしの流砂に呑まれていく一匹の犬が、わずかに地表へ頭部を突き出している絵。
どちらもショッキングな作品だが、サトゥルヌスの目には狂気と哀しみが錯綜しているし、犬の方は吠えることも止めて虚空を見つめており真の絶望が胸に迫ってくるような気がする。
単なる残酷な絵ではないことは確かではある。
ドラクロワといえば『民衆を率いる自由の女神』が最も有名だが、彼の真骨頂はもっとダークな絵になるだろう。
地獄で亡者に襲われるダンテの絵や、降伏直前の王宮内で繰り広げられた大虐殺の図などは、公開当時はあまりに衝撃的で女性が失神しまくったと伝えられている。
彼は言わずと知れた、『フランダースの犬』のネロの勇者様だ。
赤い色がうまく出なかった為、ルーベンスが自分の血を混ぜたというこの2枚の巨大な絵は、一枚はキリストを打ち付けた十字架を立てる瞬間を描き、もう一枚はそこから降ろしている途中の劇的瞬間を描いており、その圧倒的迫力は絵の前に立つ者全員を無口にさせた。
ネロがずっと観ることが出来ず苦い涙を飲み続け、ついに最終回でその目で観た後、あの世への片道切符となったこの2枚の絵。
私も幼い頃は涙を流して眺めていた。
総作品数、2045点にも及ぶ。
光というつかみ所のないモノを、見事にキャンバスの中に閉じこめることが出来た奇跡の画家としても有名。
モネ以前は“雪は白く、影は黒い”とされていたが、モネが「私は影や雪に様々な色が含まれていることを発見した」と語るように、この印象派の旗手は美術界に色の革命を起こした。
たかが一個の積みわらに、一体何色の色がちりばめられていることか。
対象物を輪郭線で囲むのではなく、線を使わず色の塊として表現する…当時の画壇は本当に目からウロコだったであろう。
睡蓮にしろ大聖堂にしろ、日射しが違うだけであれだけ同じモノを描き続ける執念に脱帽した。
“ノートの落書きすら名画”といわれるほど、そのデッサン力の素晴らしさは他に例を見ないだろう。
絵のうまさは他の素晴らしい画家と比べても群を抜いている。
それにしてもつくづくモナリザは不思議な絵だと思う。
写真がなかったあの時代、生きた証となる肖像画では、どこの誰が描かれているのか分かるように、人物は家紋の入った服を着たり特徴的なアクセサリーを身につけるものだが、ダ・ビンチは彼女に指輪、イヤリングなど全て外させ、服なんかアピール度ゼロの黒生地だし、わざと身元不明にさせてるとしか思えない。
彼女の顔は片方が微笑んでいるのに一方は悲しんでいるし、背景に至っては左右の地平線がずれていて景色も全然違うことになっている。
これはどういうことなのかゴッホしか知ることができない。
ゴッホの言葉のこのような言葉がある。
「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい」
点火、爆発、炎上、沈没といった印象の強いゴッホ。
キリスト教の伝道師を経た後の27歳から37歳までわずか10年の彼の絵画人生は、耳切り事件やピストル自殺など、古今東西の芸術家の中で屈指の波乱に満ちたものになった。
「絵画は狂気に対する避雷針だ」という彼の絵は痛々しいまでの誠実さに満ちています。
彼が描いたのは貧農ばかりで、“ピアノを弾く御令嬢”なんて絵は一枚もないことがわかる。
「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」、そういうことになるだろう。
結果、彼の生涯で売れた絵はたった一枚だけ、それも友達の妹が買ってくれたものだった。
収入のない彼を支えたのは弟のテオ。
テオは兄の絵の最大の理解者で「兄さんにお金を送ることは自分に送っていることと同じなんだ」と貧しさを訴える妻に弁明していた。
絵に魂を奪われたゴッホを周囲の住民は怖がり、住民投票で彼を精神病院に入れるべきだという決議がなされ、彼は病院に行くことになる。
彼はさらにその中でも描き続けた。
光と影の魔術師、魂の画家レンブラントです。
金色の光に照らされて闇の奧から浮かび上がる人物たちは、聖者も妻も商人も誰もが神聖かつ崇高な空気で包まれています。
その生涯において、最初の妻に先立たれ、息子夫婦にも、そして2人目の妻にも先立たれた上に、裁判所から破産宣告を突きつけられ全ての絵を競売用に没収されたレンブラントです。
晩年の彼が描いた何枚もの自画像には、いつまでも続く激痛にとうとう慣れてしまった、いわば“達観”した静かな目がそこに描かれている。
凄惨な体験が逆にもたらした穏やかなその目は、一度見ればけっして忘れることが出来ないだろう。
400年も昔に、しかも遠くオランダの地に生きていた彼のことなど、絵がなければ当然僕が知るよしもないです。
だが絵を見た瞬間彼の存在感がハートをわしづかみにし、どんなに孤独な状況下でも“僕にはレンブラントがいるじゃん”と一気にに救われるこの現実に絵画の奇跡を見た気がした。